Reading Tour

よく停滞、時に更新、きままな読書系ブログです

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愛についてのデッサン/野呂邦暢

「万年筆のキャップをはずし、原稿用紙に
たった一行でも文を書けばそれが詩になる」
佐藤正午は解説でそう語る。

野呂邦暢の作品を読んだのはこれが初めてだ。
わたしが生まれる前に、こんな情深く穏やかな文体を
持った作家がいたことに感慨深くなる。


これから、という時に野呂邦暢は心筋梗塞で亡くなった。42歳だった。早すぎる死だ。
丸山健二がエッセイ上で彼の死を惜しんでいた。
山口瞳も連載エッセイで彼の死について書いていた。
二人とも滅多なことでは人を誉めないし、認めない。

『愛についてのデッサン』は古本をめぐる青春小説だ。
六つの短編連作小説の形を取っている。
その中では表題作が素晴らしい、の一言に尽きる。

主人公佐古啓介の過去の恋愛、行きつけの喫茶店の女性の失恋、
そこのマスターとの静かな会話、そして死。
これら複数の話が、丁寧な筆致で綴られる文章で関連づく。
この作品は構造的にかなり巧みに、計算高く作られている。

一読して心にあたたかいものが残った。すぐさま再読して構成の巧みさに唸った。
今年読んだ本のなかで、一番ぐっときた。高かったけど思い切って購入してよかった。
いま、『草のつるぎ・一滴の夏』を読んでいる。

野呂邦暢という作家を今まで読み落としていたのはもったいなかった。
もっと読んでみたい。しかし、彼の作品はほぼ絶版となっている。
野呂邦暢が、佐古啓介が、どうやら古本屋で待っているようだ。
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深代惇郎の天声人語/深代惇郎

坪内祐三『考える人』によると、
1976年生まれの編集者が深代惇郎を
知らなかったというエピソードが書かれている。
つまりそれ以降の世代は深代惇郎を知らない世代と言える。

わたしだって高校の国語教師から文体模写として深代惇郎を
勧めてもらえなければ知らないまま過ごしていただろう。
30歳未満でどれくらい深代惇郎を知っている人はいるのだろうか。

もっとも、深代さんを知らなくても無理はない。
知りたくても、深代さんの本はすべて絶版になっているのだから。
深代惇郎の著作は4冊。『深代惇郎の天声人語』『続・深代惇郎の天声人語』
『深代惇郎エッセイ集』『深代惇郎の青春日記』。これに『天声人語8』を加えて計5冊。
これらはすべて古本屋で探すしかない。

深代さんの書いたものには、ユーモア・皮肉・哀愁がある。
例えば佐藤元首相のノーベル平和賞受賞に際し、「何もしないことで賞を貰えるんだったら、
オレだってノーベル平和賞だ!?」と天声人語上で言い放っていて、何とも痛快で面白い。

また、新幹線の騒音問題(スピードを減速するかどうかの是非が当時あった)に関して
謡曲のたとえ話を持ってくる。下手には上手が分からない。名人が下手の間に割って謡を
うたったとしても、下手は構わずうたい続けるだろうから従者に
「あれは、とまらない(名人がうたったとしても、良さが分からず
しかも自分に心酔しているから謡を止めない)」と語る。
そういう逸話を紹介し、国鉄に対し「これは、とまらない」と結びの文で締める。

「減速すべきだ」という批判の言い分を聞かない国鉄に対して、
強烈な皮肉をユーモラスに浴びせる。
出来そうで出来ない芸当だ。

800字前後で書かれたものの中にさり気なく知識を入れている。論理構成も明快だ。
志賀直哉と違う意味で文章に隙がない。そのまま音読しても何ら問題ない。
最近読み直して国語の先生がなぜ勧めたのか、今、あの時以上によく分かった。
すごい、の一言に尽きる。

天声人語にブランドをつけたとするなら、深代さんの功績はかなり大きい。
彼と荒垣秀雄さん*が天声人語の地位を作り上げたと言ってもいいだろう。
そんな朝日は現在進行形で酷いことこの上ない。荒垣さんが亡くなった1989年に
朝日はサンゴ事件を起こした。それは朝日の凋落の序章だったのかもしれない。

坪内さんは『考える人』の深代さんの項の締めとして復刊を望んでいるが、これには大賛成。
ちなみに深代さんの項を執筆したのは2004年。それから2年経っている。
いつまでも復刊しない朝日の態度は偏執としかいいようがない。

*……荒垣秀雄さんは1946年から1963年まで17年間、天声人語を執筆された方です。

追記06/09/18
今は天声人語ではなく、読売の編集手帳がよい。中公ラクレに現在10冊出ている。
担当しているのは竹内政明さん。良い書き手と思います。
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夜のピクニック/恩田陸

映画化&文庫化記念を祝して書いてみます。
第二回本屋大賞及び吉川英治文学新人賞受賞作。

すごくよくできた小説だと思う。
前半は意味ありげな複線をいくつかはっている。
それらは読み進めていくと見事に解消されていく。

早く知りたいと思わせるところで、主人公が変わって
真相はしばらくお預けになる。そうしたらそうしたで、
              今度はまたこっちで意味ありげな出来事が起こる。

基本的に読者を飽きさせない展開だ。こういうのは良い意味で憎らしい。「早く教えてよ!」と
思いながら読んだ。高校生時に読みたかった本かもしれない。あの頃を過ごしていた時の
葛藤やら悩みが懐かしくも甦ってきた。何とも甘く、そして切ない思い。

さて――
ここからきちんと論じてみたい。
『夜のピクニック』は一見するとただの青春小説だ。学園ミステリーやら恋愛やら、
色々混ざっているものの、全体を通読すると、やはり青春小説だと思う。
ここに異論はない。

その先にあるもの、作者本人がそうなのかもしれないが、『夜のピクニック』には女性軽視的な
展開がある。薄くではあるが、ホモソーシャル的でもある。
恩田さん自身が女性であるにもかかわらず、女性そのものを否定している。

西脇融視点でこういう心理描写がある。
 
一回お話しすれば済むのかい? この先俺と続けていく気が本当にあるのかい? ひょっとして、受験の間だけ、一緒に励ましあったり、一緒に帰ったりしたいと思ってるんじゃないかい? 俺の知ってる先輩で、大学まで続いたカップルなんて、一人もいやしない。俺たちはもう受験しか残ってない。その間に、「高校時代の恋人」というアルバムの写真を残そうとしていないかい? 最後のページに写真を貼って、項目を書いたシールを貼ってしまえばもう安心。確かに彼は存在したのだと後で言える。
 急に嫌悪感が込み上げてきた。

戸田忍がこういうセリフを吐く。
「正直というか、何か変だよ。愛がない。打算だよ、打算。青春したいだけだよ。あたし彼氏いますって言いたいだけ」

彼らの標的になっているのは、内堀亮子といういかにも女の子的なキャラクターだ。
彼女は小説の中でかなり印象が悪い。男性キャラだけじゃない。女性キャラからも
良い印象を持たれていない。

そうした描写がある中で、完璧な人間が『夜のピクニック』には登場する。
志賀清隆は成績が常にトップなだけでなく、スポーツマンでハンサムで、人格的にも誰からも一目置かれる好青年。美和子は言わずと知れた才色兼備なお嬢様。

男性主人公である西脇融もハンサムという描写があり、親友役の戸田忍も聡明で勘が良い。
男性陣はみなパーフェクトだ。女性役も敵役である内堀亮子を除けば、パーフェクトだ。
榊杏奈は帰国子女の美人。スタンフォード大学に合格している。
後藤梨香や梶谷千秋は早慶目指すぐらいだから頭も良い部類にはいるだろう。おまけに
貴子との会話から察するに、「いい人」たちでもある。ちなみに千秋は恋愛観に関して、
かなり大人な視点を持っている。そういう描写がある。遊佐美和子は上記の引用にある通り、
美人という設定だ。

女性主人公の貴子は彼らと友情を成立させ、うまく適応している。彼女はストーリー中
何度か劣等感や不安・悩みを感じている。そういった描写があるものの、
最終的に彼女は解決し成長していく。
基本的にデビュー作である『6番目の小夜子』と変わらない。登場人物が少し増えただけだ。
できる人たちの環境の中で、普通という立場の主人公。

わたし(reading_tour)自身そんな環境にいたことない。だから、ストーリーを楽しめたけど、
共感しなかった。コンプレックスに潰されそうな中で何とか「普通」を手に入れようともがく
主人公の方がよっぽど共感する。これは個人的な嗜好の問題。

閑話休題。

ここから察するに、恩田陸さんは女性そのものをかなり嫌っているミソジニーの持ち主では
ないだろうか。女性特有の打算、ずるがしこさ、そういったものを嫌い、極めて単純な価値観
――容姿・地位の高い人間――が好きなんだと小説を通して読み取れる。

男性的なミソジニーを男性作家が持ってても何らおかしくないが、
女性作家が男性的な視点のミソジニーを持っているのはなかなか面白い。
恩田さんは客観的に男女を観られる希有な人だと思う。恩田さんを評価できるのは
そこにある。恩田さんの読者層なんて知らないが、男女ともに人気がある作家では
ないだろうか。

例えば村山由佳なら、もっと内堀亮子を擁護しようとするだろう。
(ex:『天使の卵』で女性そのものなのは夏姫)他に、豊島ミホ、島本理生も
女性そのもの主人公ばかり書いている。江國香織もそうだし、よしもとばななも山田詠美も
あらゆる女性作家はみな内堀亮子的なキャラを自身の作品上でボコボコにしないだろう。
恩田さんだけがボコボコにするw(敬称略)

誰か「現代女性作家に潜む男性的ミソジニー」というテーマで論文を書いていないだろうか。
もしあるのなら読んでみたい。
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こころ/夏目漱石

高校生時に読んだとき以来の久々の再読。
若い頃に読んだ本を再読すると印象が変わる、
あるいは見落としていた箇所を読み取れる
ってことをよく聞く。

たしかに、前半部分で読み落としていた箇所はあったものの、
印象はそこまで変化しなかった。
乱読多読による読書経験からもっと俯瞰的に読むことができるようになった
というのは印象が変わるとは意味合いが違う気がする。

わたしが今回、殊に感じたのは『ノルウェイの森』は『こころ』をふんだんに取り入れているな
ってことだった。再読して気付いたことで分かっている人にはとっくに分かっている話だろうけど、
類似点をあげてみようと思う。

気付いたのはこういう点。
・Kとキスギ
ともに自殺した&イニシャルが同じ。ついでに「私(watashi)」と「ワタナベwatanabe」
もイニシャルが同じ。流石にこれはこじつけに近いけれども。

・Kと永沢さん
Kのセリフ「精神的に向上心がないものはばかだ」

永沢さんのセリフ「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」
は意味こそ違うものの、ともに強者が言い放つセリフという点で一致している。

・似たセリフ
『こころ』……上の四章で「先生ははじめから私を嫌っていたのではなかったのである」
『ノルウェイの森』……第一章の最後「直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ」

・ホモソーシャル的なストーリー
『こころ』は弱者である「先生」が強者である「K」に対して「静」を奪い取ることで
「俺(=先生)はお前(=K)よりも強いんだ」的な男性社会特有の優劣を競っている
ホモソーシャル的な作品だ。『ノルウェイの森』もワタナベとキスギが
ホモソーシャル的な競い合いをしている。
詳しくはこれそれあれどれを参照して下さい。

・過去を語っている現在の主人公
『こころ』……冒頭「世間を憚る遠慮」という書き出しから「私」が何らかの手段で
世間に公表している。
『ノルウェイの森』……一章開始後すぐに「僕はこの文章を書いている」という文より
どちらもある程度時が経った後、自分の過去を語っている形式。

その他に『ノルウェイの森』とは関係なく気付いた点といえば、
・「私」は「静」と結婚して子供を儲けている
八章「子供を持ったことのないその時の私」という文章から、現在の私には子供がいる
可能性が高い。そして「静」と結婚していることが分かるのかというと、三十一章で
先生の信頼を得る所や三十四、三十五章辺りのやりとりから判断できる。

以上、こういった解釈は大学の学部レベルの話だけど、
わたしは文学部でも国文学科出身でもないから、単純にこうした発見を読みながら
確認できたことにすごい喜んでしまった。
三十代や四十代になってから、『こころ』は再読してみようと思う。
その時はどんな心持ちで読んでいるのだろうか。

追記 06/9/1
最近出た漱石の分析本で読みやすいのは
石原千秋『「こころ」大人になれなかった先生』みすず書房
です。このエントリーで書いたことをもっと知りたい人はこの本を参照して下さい。
もともとこのエントリーは石原教授の話を実際に聞いて派生させて書いたものですから。

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赤頭巾ちゃん気をつけて/庄司薫

 ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。特に女友達にかける時なんかがそうで、どういうわけか、必ず「ママ」が出てくるのだ。

 斎藤美奈子が言うには1970年代に学生だった男の子は
みんな『赤頭巾ちゃん気をつけて』を読み込んで感銘を
受けていたらしい。今で言う村上春樹みたいなもので、
文体も薫クンに似せた書き方をする男の子が山ほどいた。同様に、小説の新人賞には薫クン文体で書く人がこぞっていたらしく、当時の下読みさんたちは
さぞうんざりしてただろう。

健全な男の子の妄想っぽく、今でもこういういじらしいストーリーに惹かれても、
まぁおかしくないんじゃないかと思う。甘ったるい文体は母性のやさしさに依存したい欲望を
そのまま表しているし、時代の流れに翻弄されて悩む「ぼく」というのも今でも通用するものだし、
幼馴染の女の子とケンカして仲直りしようとするためにあれこれ悩むのもそう。挙げ句の果てに
下着を着けていない女医さんの登場なんかは男の子の健全な妄想の極致じゃないだろうか。

現実にはあり得ない、けどあり得ないだけにあったらいいなぁと夢見てしまう男の子を
救ってきた一方で、『赤頭巾ちゃん気をつけて』は厳しい現実を生きるうえで強いメッセージ性を
発している。今でもこういう考え方は大事だと思うので少しだけ引用してみる。


ぼくに言わせると、そうやって暴れたり女の子のからだにさわっていないと確認できない実存なんてのは、どうも大したことがないような気がする。何故って、そうやって暴れたり女の子を抱いたりするのはちょっとあまりに簡単すぎるから、逆にそれで確認できる実存とか孤独なんていうのもちょっと簡単すぎてつまらないのではあるまいか。


そして時代に悩む「ぼく」のむき出しの悪意が後半になってあからさまに出てくる。


そうなんだ、彼らはああやっていかにも若々しく青春を燃焼させその信じるところをやれるだけやったと信じきって、そして結局は例の「挫折」をして社会の中にとけこみ、そしてそれでもおおわが青春よ若き日よなどといって、その一生を甘さと苦さのうまくまじったいわくありげなものにして生きるのだ。彼らの果敢な決断と行動、彼らと行動をともにしないすべての若者をすべての人間を非難し虫ケラのように侮辱するその行動の底にはあくまでも若さとか青春の情熱といったものが免罪符のように隠されているのだ。いざとなればいつでもやり直し大目に見てもらい見逃してもらい許してもらえるという免罪符が。若き日とか青春といったものを自分の人生から切り離し、あとで挫折し転向したときにはとかげの尻尾みたいに見殺しにできるという意識が。もともと過去も未来も分けられぬたったひとつの自分を切り売りし、いつでも自分を「部分」として見殺しにできる恐るべき自己軽視・自己嫌悪が隠されているのだ。


数寄屋橋から四丁目に向かう狭い歩道は賑わう人の群れでごったがえしていた。ぼくはその人並みの間を、自然に左足をかばうようにしながらゆっくりと歩いていったが、前から後から人々があるいはつき当りあるいは押しのけるようにしてぼくにぶつかってきた。そうなのだ。この人たちは要するに誰のことでもない自分のこと、自分のささやかな幸福やそのささやかな利益のことだけを考えて生きているのだ。ぼくがおかしなゴム長をはいて足に怪我してい歩いていようと、そんなことはかまいはしないのだ。誰もひとのことなど本当に考えはしない、ましてやみんなを幸福にするにはどうしたらいいかなんて、いやそんなことを真面目に考える人間が世の中にいることさえ考えてもみないのだ。そしてそれは恐らくはごく当り前の自然のことなのだ。


これらの悪意を受け止めるキャッチャー役が「赤頭巾ちゃん」を探しに来た女の子なんだけど、
ここで何度もキャッチャー役を務めようと奮闘する薫クンが反転して「悪意」になってしまうのが
面白い。ここが『ライ麦畑で捕まえて』と違う展開。

この作品はよく『ライ麦畑で捕まえて』と比較されるけど、構成がまったく同じというわけではない。
きちんとオリジナルな箇所があることを読者側は読み落としてはいけない。先入観なしで
『赤頭巾ちゃん気をつけて』を読んだが面白いと思う。

なお、この小説は第六十一回芥川賞受賞作。この時評者の一人は三島由紀夫。
あのマッチョな文体をもった正反対の書き手がこの小説を賞賛していたのは面白い。
読み手として、三島由紀夫は一流だったと思うエピソードのひとつだ。
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