Reading Tour

よく停滞、時に更新、きままな読書系ブログです

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One-line book review 2

69(シクスティナイン)/村上龍
元祖突き抜け系というべきか、おもしろい。「……というのは嘘で」は大好きだ。
阿修羅ガール/舞城王太郎
文庫版も最近出たけど、あえて単行本で紹介。冒頭がいい。
野ブタ。をプロデュース/白岩玄
勢いあって良いけれど、後半息切れ。一番新しい突き抜け系だから読みやすい……はず。
シルエット/島本理生
P124~127の描写がとてもいい。若手作家の中じゃこの人が一番好きだ。
インストール/綿矢りさ
この人文章巧い。書けそうで書けない文体。新作出したら、『蹴りたい背中』と収録で文庫化かな?

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One-line book review 1

術語集/中村雄二郎
思索を始める第一歩。ふと再読したくなる本。そして、以前読んだ時より感動が大きい本
じぶん・この不思議な存在/鷲田清一
「自分」について考えてみる哲学入門書。比較的読みやすい。
豊かさの精神病理/大平健
バブル期に書かれたものだが、今でも新しく読むことができる。「モノ語り」の人たちは今でも多数存在している。
スカートの下の劇場―ひとはどうしてパンティにこだわるのか
上野千鶴子
フェミニズムが好きか嫌いかはともかく、フェミニズムについて何か考えたいなら、読むべき入門書。
現代思想のパフォーマンス/難波江和英、内田樹
構造主義について、わかりやすく説明した本。「実践編」でどのように文学作品や映画を読み解くかやっている。良書。

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本の一行感想(趣旨)

質より量ってやつです。
似たジャンルの本を毎回5冊前後紹介する予定です。
たまには違う本が読みたい人向けに作ってみました。
偏りは当然あると思いますが、なるべく良書を選んでみました。

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村上春樹を読む 6(上)

今回から『羊をめぐる冒険』に入った講義。
本論に入る前に、前回の講義後、村上作品に出てくる井戸という
キーワードに注目した学生がいるとのこと。

『1973年のピンボール』に枯れた井戸という表現があり、
それは「僕」の自我を示しているのではないか、とのこと。
『1973年のピンボール』は鼠殺しだけではなく、「僕」が
去勢されているストーリーでもある。

また、ピンボールと対面した時に始まる会話は「僕」が壊れてしまったシーンで、
「僕」が去勢されていることを表している。この指摘は教授も納得した意見であり、
早速今回、使わせてもらうんだそうです。というわけで以下本論。

◎繰り返される過去、自己
とあるページを読むと、『羊をめぐる冒険』は時間を求めるストーリーであることが分かる。
今まで奪われていた時間を取り戻そうとしている。
P36~37(上巻)のシーンで、別れた奥さんはありとあらゆるものを持って帰る。
一緒に写った写真すら切り取るほどに。これはつまり、彼女とともに過ごした時間の喪失。

伊藤整の小説(エッセイだったかも)に伊藤整の先生が夫婦について語るシーンがあり、
「買ったばかりの帽子はしっくりこないが何年も被っているとしっくりくる」と言う。
子どもはどんどん他人になっていく自己であり、夫婦はどんどん自己になっていく他人だ。
つまり、同じ時間を過ごすことで夫婦は似てくる。

P37に「完璧に修正された過去」という表現がある。
教授が子どもの頃の鯨の表記と今の子どもの鯨の表記は180度異なるという話を枕に
記憶の修正は怖いと教授は言う。人の細胞は一ヶ月ですべて変わってしまうのに、
それでも自分であることを確認できるのは過去という時間があるからだ。
自分が自分であることを確信するには、相手に自分のことを教えてもらうことだ。
教え込まれるからこそ、自己を確認できる、つまりアイデンティティの安定をはかることが
できるのである。

他者の承認なしに自己は安定しないし、またそれは他者のおかげで自己が存在している。
人は様々な形で自分のアイデンティティを確認し(ex:誕生日)、それは結局繰り返しに
よるものだ。

1980年代の小説のスタイルは「宝探し」で、村上春樹に限らず、あるものを探し求める小説が
多かった。(確かに村上龍の『コインロッカーベイビーズ』もそうだった)『1973年のピンボール』
で「僕」は僕自身を喪った。僕自身を取り戻すのが『羊をめぐる冒険』なのである。
(つづく)

注:
・例のごとくページ数は旧版のものです。
・言い訳ですが、この日体調が優れなく一部聞き逃した部分があります。悪しからず。

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村上春樹を読む 6(中)

◎井戸について/自己を取り戻すこと
P172(上巻) 底なし井戸に石を投げ込んだような沈黙がしばらく続いた。
石が底につくまで三十秒かかった。

枯れた井戸に水を引き入れる作業、それは無意識を取り戻す物語だ。

作品中の「井戸」は無意識を示す。無意識について研究していたのは
フロイトとユングだが、両者は対局の主張をしている。
フロイトは無意識を良くない状態、カオスとし否定的だが、ユングは無意識をエネルギーの
貯蔵庫と表し、肯定的な意見だ。村上春樹の場合、無意識をユング的にとらえている。

ちなみに双子は西洋では不吉なものの象徴だ。
『1973年のピンボール』には実際に双子が登場するし、鼠三部作を考えれば「僕」と鼠だって
表裏一体の双子――同一人物と考えてもよい。鼠は自ら「僕」や女のもとを離れていき、
「僕」も相棒や妻と別れる。ともにたった独りになっていく。アイデンティティは他人に
支えられた、築き上げられたものだ。二人とも自己を喪っていく。

P10(下巻)「我々ってことばは好きよ」
『1973年のピンボール』のP25にも「僕たち」ということばがある。
こうした複数形に意味が込められているのは明白だ。

「僕」は独りになる。つまり自己を喪う。それから自己を取り戻すにはどうすればいいか?
普通2パターンある。1つは他人との関係をもう一度取り戻す。もう1つは喪われたものを自分自身で取り戻す。後者はかなり危険な賭けである。下手をすると、もっと深い孤独に陥る可能性が
あるからだ。しかし、後者を「僕」はやろうとしているのである。

一番最後のシーンで、「僕」は2時間泣く。これは一人だからできることだ。人を前に普通2時間
は泣けない。だが、2時間泣くことは独りであることを確認する儀式でもあり、喪っていた時間を
取り戻したことでもある。

『羊をめぐる冒険』は「僕」の成長物語だ。つまり喪った自分を取り戻すストーリーだ。と同時に
独りで生きることに決めたストーリーでもある。

自分であることを一人で取り戻す、それは人の時間を自分のものとして奪うことだ。
どのようにして奪うか?
一つは名前だ。P12「名前なんてもうどうでもいい」、「誰とでも寝ちゃう女の子」
名前はその人と他人を区別する手段。namelessは要するに他人と区別しなくなることだ。
区別の拒否、それは他人の時間を奪うこと。罪の意識をなくすただの交換作業にしてしまう。
P228~233(上巻)の相棒とのやりとり。「僕」の冷淡な対応は、分身ではないから
さらりと言えるのだ。
(つづく)

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村上春樹を読む 6(下)

◎父殺しのストーリー
父殺しは一人前になるプロセスだ。P134から「僕」は新幹線で移動して故郷に向かう。
そして女に手紙を渡したり、ジェイに会いに行く。届けることや縁のあった場所に行くことで
故郷に別れを告げる――自立するのだ。

いるかホテルの親子は仲が悪い。しかし最後になると和解する方向へ向かう。「僕」も
「きっと今にうまくいきますよ――時間さえ経てばね」と言う。
これはソフトな父殺しだ。認めていなかった子どもを認める。つまり子の立場に合わせることだ。
子の側からすれば認めてもらえることになる。ソフトな父殺しは父の生きた時間を譲り受けることだ。
互いの立場で認め合う行為だ。子は時間において父を乗り越える。つまり、奪って自分の
ものにする。

「羊」の意味は時間を取り戻すこと。
『羊をめぐる冒険』に出てくる右翼の大物(児玉誉士夫あるいは小佐野賢治を
モチーフにしている)は要するに裏の世界の大物だ。
羊は1936年に羊博士から右翼の大物へ移動している。
ここで言えるのは、「父殺し」の中に「アンダーグラウンド」的なものが入り込んだと言うことだ。

自己神話を語るのが村上春樹なのだから、「アンダーグラウンド」的なものはそのまま
彼の著作『アンダーグラウンド』に繋がっていくのだ。

ここで今回は終了。
後半は朦朧としていたので、聞き間違ったのか聞き取れていたのかちょっと判断が
付きかねるが、『アンダーグラウンド』に繋がるというのは流石にこじつけと思った。
次回の授業に期待したい。

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たまにはこんなのも

この地図の右にある「拡大」リンクをどんどんクリックすると……

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きけわだつみのこえ

きけわだつみのこえ』岩波文庫

視点を変えることで新しく見えてくるものがある。規定の概念を
壊すことで、その文化が活性化され新しい文化を生み出す。
例えば、深作欣二さんの「仁義なき戦い」シリーズ。
様式美としてのヤクザ映画の粋を壊して、本格的な
Sex&Violence映画を作り上げたのは彼が初めてだった。
そして、Violenceを特化させたのが初期の北野武さんの映画になる。
顰みにならい、この試みをブログでもやってみよう、ということで戦争という視点なしで、『きけわだつみのこえ』を語ってみようと思います。

はっきりいって「切ない」のひとことに尽きる。それぞれが極限状態において素直な気持ちを
吐露している。戦争に対する疑問や家族や両親への思いなどなど……。
なかでも上原良司という人の手記は特に切なさを誘う。
羽仁五郎の『クロォチェ』という本の文中に丸印が記してあり、それを順にたどっていくと、
以下のようになる。

きょうこちゃん さようなら 僕はきみがすきだった しかし そのとき すでにきみは
こんやくの人であった わたしはくるしんだ そして きみのこうフクをかんがえたとき
あいのことばをささやくことを だンネンした しかし わたしはいつも きみを あいしている


他に大井栄光という人の手記にも、強く気持ちを揺さぶられる。

実力のない、頼る所のない弱い者がただ弱いというだけでは、可憐の情はわかないのでは
なかろうか。弱いながらに自己を保存し、細々ながら下手ながら、及ばずながらの努力を
あらわしているのを見るときこそ可憐の情が湧くようである。


もちろん、こうした情に訴えるものばかりに共感したわけじゃないけれども
彼らの手記を読むと、自分の中でどうしても切なさが染みてくる。ひっそりと
じわじわと心の中に深い情感を残してくれる。こういう気持ちを小説以外で
味わうのは珍しい。心に強度を与えてもらえる作品だ。

この本は、自分に生きる意味を与えてくれる。多少大袈裟な表現ではあるけれども。
弱気になる時、自信をなくす時、思いっきり凹んだ時、何もかも投げ出したくなる時、
『きけわだつみのこえ』をそっと本棚から取り出し、パラパラめくって読む。
そして毎回、こう思う。
「この程度で落ち込んでいたら、いけないな。自分もまだまだ負けていられない」と。
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友人が上京してきた

友人が上京してきた。
目的は、バンドのライブ。

彼はプロとして音楽をやっていて、
コロムビアレコードと契約しています。
(まだデビューしていないけれども。)

で、CDを出せるか出せないか
直々にコロムビアレコードの社長や
担当プロデューサーにライブを見てもらって
その判断をしてもらうとのこと。
つまり、今回のライブが彼らにとって大きな転換点になるわけです。

結果は……デビューが当分先になるとのこと。
とはいえ、演奏レベルやライブパフォーマンスは既に
通用するレベルだそうです。所属事務所とレーベルの
要求に満たないため、デビューが遠のいたみたい。

彼自身も何が足りていないのか、充分分かっていただけに
実に悔しそうだったし、その要求の高さをクリアしようと
心中穏やかではなかった。

本当はこの運命のライブを見に行く予定だったけれども、
道に迷ってる内に彼らのライブは終わってしまいました。
次の東京のライブは7月らしいので、今度こそ行ければなと。

応援を込めて、リンク。
UNDER REBEL UNION

余談
次の日、大学に行きたいというので連れて行ってあげて、とある場所で
のんびり話をしていたら、斜め前の人が綿矢りさだった。久しぶりに彼女を
構内で見かけた。いや、ただそれだけなんだけどさ。

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村上春樹を読む 5(上)

前回はこちらこちら

◎人の話を聞くこと=相手の人生を背負うこと
『1973年のピンボール』の冒頭
P5 見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった。……中略……生まれ故郷、
育った土地の話を聞いてまわったことがある。
――土地の話を聞きたいのではなく、そこで育ったその人の話を主人公は聞きたがっている。
――人の話を聞くということ、それは重い荷を背負うこと。
『アンダーグラウンド』にも通じるところがある。
→『アンダーグラウンド』で村上春樹は聞き役に徹している。

村上作品の特徴として、主人公は巻き込まれ型だ。否応なく主人公は事件に巻き込まれて
しまう。それでも外からやってくるものを受け入れようとする。この主人公のスタイルは
「人の話を聞く」ことと、つながりがある。

話は脱線して、人の話を聞く仕事として、カウンセラーがある。教授の知り合いに
児童虐待をうけた子どもの、もっとも深刻なレベルの施設に勤めている人がいる。
虐待を受けた彼らは言葉に自分の全人生を乗せて語ってくると言う。その話を聞くのは
ものすごくストレスフルだという。極端な例ではあるが、人の話を聞く行為はとにかく重いのだ。

明治期に談話系・交際術系の本が流行したという。前近代までは知っている人たちだけで
構成されていた世界だったゆえ、自分のことを説明する必要性はなかったのだが、明治期に
なると土地の移動が可能になり、それ故周りが知らない人になってしまうので、自己表現が
必要になった。しかし、近代以降、日本人は聞く技術をおろそかにしてしまったのだ。
それを特徴づけたのが、村上春樹作品になる。

閑話休題

人の話を聞き続けることは底なしである。(限りがない)
――村上作品では「井戸」が象徴的に底なしであることを示している。
→『1973年のピンボール』の冒頭に井戸は出てくるし、『ねじまき鳥クロニクル』にも
井戸が出てくる。

◎聞くこと=何かを切り捨てること
人は話をすべて聞いているわけではない。どこかで話を選んでいたり、切り捨てたり
しているものだ。例えば、電車の中で本を読む時、周りの雑音を切り捨てている。
また、人の話を自分の都合良く解釈する人だってそうだ。その人はそこしか聞けて
ないのだ。

文化的差異で聞くことを切り捨てている場合だってある。セミの鳴き声は西洋の外界認識に
おいては騒音に過ぎないが、日本の外界認識では夏を表すメロディだ。

それらを踏まえた上で、25章、耳が聞こえなくなる場面。
・寿命が切れた
・耳掃除
・聞こえない

人の話を何でもよく聞く「僕」が聞こえなくなるところにある種の意味が付与されている。
――「僕」は人の話を聞きつつも、実は聞いていなかった(逆説)。今まで平気だったのは、
「僕」は聞いていなかった(=受け止めていなかった/切り捨てていた)から。

究極的な聞くこと=世界の果て
――まだ見知らぬこと。
→世界の果てをことばに変換して、自分の中に手に入れる
⇔僕は手に入れていない。
P66 何処まで行けば僕は僕自身の場所を見つけることができるのか?
――僕は世界の果てを手に入れようとしたが、聞けないために手に入らない。

『1973年のピンボール』は場所探しを求める話
P25 「僕」たちは700キロも離れた街に住んでいた。
――鼠と「僕」はお互いに700キロ離れていた。
「僕」は鼠との距離を縮めようとしている。

『1973年のピンボール』は鼠殺しをより明確にしている一方で、
鼠を求めようとしている。つまり鼠探しをしているストーリー。
(つづく)

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村上春樹を読む 5(下)

◎郊外――出て行くだけの場所
・郊外とは生産が行われない場所。消費のみを行う場所。
・寿命がある
→多摩ニュータウンで最初に開発がなされた場所には年金受給者たちばかりが
住んでいる。移動ももはや彼らにはできない。郊外は廃墟と化するしかない。
・時間が限られた場所。消費され尽くして消える場所。

P80 霊園は墓地というよりは、まるで見捨てられた町のように見える。
――郊外の成れの果てを暗示したかのよう。(1980年代は郊外が膨張していた時代)

重松清さんが教授と対談した時に、同様のことを言った。
郊外は丘陵地帯、墓地と同じ構造をしていると。

「僕」は土地の話を聞いていたが聞くことができなかった、何も取り込むことができなかった、
受け止めることができなかった。
――「僕」のポジションは郊外と似ている。
手に入れようとしたができなかった。
――直子を喪うのは当然の理

P16にある通り、郊外は直子が育った場所。郊外の宿命を考えると、彼女が死を選ぶのも
納得がいく。

P65 「初めて見た時から東京の景色って好きになれなかったわ」
「土は黒すぎるし、川は汚いし、山もない」
――東京は都心と郊外で成立している場所。

◎鼠探しと鼠殺し
「僕」は鼠探しをしようとした。
――鼠の話を聞けたのか? 探せたのか?

P25 僕たち
――僕と鼠ではない。僕たちと仲間として語られている。

「僕」は鼠の話を聞くことができた。
P6 商品に台所マッチぐらいはもらえたかもしれない。
P67 マッチ一本さえない。……中略……古い紙マッチをみつけだして火をつけた。
――みつけだした証となる箇所だ。

『1973年のピンボール』は『僕』という作家が書いている。
――『僕』という作家はことばを選んでいる。
→聞いた話をリアリズム(書き言葉)で書こうとしている。つまりリアリズムに
変換しようとしている。

しかし『僕』という作家は鼠の話を去勢して書いた。つまり鼠殺しを選んでしまった。
それは鼠の話を聞いてなかったことになる。

「僕」は鼠の話を聞いたが、書かずに語り手(『僕』という作家)に渡して書かせた。
=『1973年のピンボール』

受け止めたようで受け止めることができなかった。
――結果として「僕」は鼠殺しをする。
→700キロを埋めるにはそうするしかなかった。

以上が教授による『1973年のピンボール』の見解。
今回のブログがいささかシステマティックになっているのは、
管理人である自分が、よく理解できてないってことです。
うまくつなぎ合わせたものの、これがきちんと読めるものかというと、
自信がなかったりします。ここまで読んでくれた人には申し訳ない。

今回面白かったのは、人の話を聞く=人の人生を背負うというところ。
全く同じことを自分のブログで書いていました。しかも村上春樹の短編を
読んだ感想で、タイトルが『偶然の旅人』というところが何とも面白い。

次回から『羊をめぐる冒険』に入るそうです。

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村上春樹を読む 4(上)

今回から『1973年のピンボール』に入ります。
入る前に『風の歌を聴け』の訂正が。
P138 「子供?」 と即答するところですが、
手術したというくだりがあるので、子供と即答するのは
不自然なことではない。前回話したような、鼠の子供
という意味づけにしては弱いので却下。



『1973年のピンボール』
・リアリズムを書こうとしてうまくいかなかった。
・大江健三郎の『万延元年のフットボール』をタイトルのモチーフにした。
・207、208をどう扱うか不可能ではないが難しい。

◎前提
P25の本文中に唯一、鍵括弧つきの『僕』が出てくる。
『1973年のピンボール』を書いているのは『僕』で書かれているのが括弧なしの「僕」。
質的な違いとして二人の「僕」が存在している。作家に近い『僕』が存在している。
自己言及的に書いた小説(村上春樹が混じっている小説)でありつつ、
神話的に書こうとした小説、それが『1973年のピンボール』

ポイントは鼠と「僕」
鼠=リアリズム 「僕」=春樹的 という関係性が見えてくる。

◎リアリズムの表現とリアリズムの打ち消し、そして鼠殺し。
『風の歌を聴け』でのポイントはホモソーシャルの世界で鼠殺しを行うこと。
『1973年のピンボール』では前作のリメイク板と言うべきか、鼠殺しがもっと鮮明に出ている。
・(鼠の)失恋
・(「僕」の)鼠殺しの欲が出ている
P14 入口があって出口がある。……(中略)……例えば鼠取り。

出口の象徴として、鼠が街を去るシーンがある。
どことなく死を連想させる雰囲気。自殺を考えている雰囲気が漂っている。
P16 眠りについた巨大な猫(村上春樹らしい妙な喩え)
P91~92 猫の話題
P92 ジェイが自分の指を見る。
――『風の歌を聴け』時に、鼠と小指のない女の仕草に共有されてしまっている。
――P109 女の小指を握ったぐらいさ
P52 1973年9月……、本当に存在するなんて
――誰にとって大切な年か? →鼠
⇔鼠は女と別れる。

鼠の場面はリアリズムを描いておきながら、「僕」の場面はリアリズムを
消すために書いてある。「僕」という作家は自己言及的に書こうとしている。

リアリズムを上手に消した『風の歌を聴け』
リアリズムを消そうとしている『1973年のピンボール』

P52 「本当に」存在していた。
P110 「本当に」眠れるものなら……。
P111 25歳……引退するには悪くない歳だ
――人生からの引退
同ページに何千本、何千個、何千枚という大雑把な数字がある。
――数える行為(=人生)を諦めている鼠がいる。
P147 「世界の果てみたいだ」(「僕」側の世界)
――命の果てを空間的に示した表現。
P168 何も考えたくない、何も
――自殺の暗示

「僕」が書き語る徹底した鼠の抹殺。『風の歌を聴け』よりも如実な『1973年のピンボール』
――『1973年のピンボール』は鼠殺しをより具現化したネタばらしの話。
→『僕』という作家が『風の歌を聴け』以前に書いたもの。
→『1973年のピンボール』は『僕』という作家が鼠を構成上で殺すストーリー。
→『風の歌を聴け』ではすでに去勢された鼠。

(つづく)

・旧版のページ数になります。
・授業をそのまま書き起こしたものではなく、バラバラなものを統一した形でアップしています。

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村上春樹を読む 4(下)

◎自己神話化する村上春樹
P138 「ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲め」
――『アフターダーク』にもある表現
『風の歌を聴け』の8月26日
――『ノルウェイの森』の直子が死んだ日

村上春樹のどの小説を読んでもデジャヴを引き起こす。神話とは繰り返されて
定着する物語。そして根拠もなく信じられるもの。
P11 何もかもが同じことの繰り返しに過ぎない……限りのないデジャヴ
P23 何ひとつ終わってはいなかったからだ。
9章 同じ一日の繰り返し。
⇔双子の存在
P11 初めてだった。
P36 「私は208」「私が209」

普通は同じ出来事が別の時間に起きる。
しかし、同じことが同時に起きることだってある。それが双子の比喩。

鼠は女の子を喪う。「僕」も同様に双子を喪う。
同じ出来事が同時間に起きている。

P36 同じことが同時に起きると番号が繰れない。
――数えることの放棄→生きることの放棄
→僕は数えることで生きることを取り戻し、鼠は数えようとせずに死に向かう。

◎固有名詞
固有名詞は数えられないもの。言語学では普通扱わない。扱うとするならその人・ものを
研究しなければならない。

ことばの意味は他言語と比べることで現れる(ソシュール)
例えば、「綺麗」は「汚い」ということばがあるから意味を持つ。
⇔固有名詞はそれ自体が絶対性を持つので、比較できない。

とはいえ、固有名詞は数えることが出来る。反復可能ではある。
P77 208、というシャツを着た……中略……くれた。
P12~13 「名乗るほどの名前じゃないわ」、「あなたの好きなように呼べばいい」
――名前(固有名詞)が軽く扱われている。
⇔P131 おかげで二人は208でも209でもなく……
――固有名詞の意味付けが離れてしまった瞬間。

小説で可能なこと。
「直子」を何度でも使うことが出来る。

読者は別人として読むことも重ねて読むことも出来る。
――神話的作用

固有名詞を殺す。
――何度でも繰り返すことが可能。
→『1973年のピンボール』で鼠を殺すから『風の歌を聴け』が書ける。
→同様に直子も殺せる。
→死と再生を繰り替えす。

今日の時間はここまで。続きは来週。

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ネタ切れ

でもなんでもなく、来週まで
かる~くお休み。

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