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よく停滞、時に更新、きままな読書系ブログです

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村上春樹を読む 10(序)

注:
・これは大学の講義を元にして作ったものです。自分が考えたわけではありません。
・ページ数は旧版と新版がごっちゃになっています。(後々、訂正する予定)

今回から『ノルウェイの森』です。

本論に入る前に教授は2点困ったことがあると言った。
1.朗読しにくいところがある。
(これはもちろん性描写でしょう。確かにw)
2.でたらめな小説だっけ。
(詳細不明。ノートにこのように書いてあるが理由を書いてなかった。
教授はこういう事をわけもなく言わないのだが。)

◎この本の特徴
・帯を代えたらヒットした
『ノルウェイの森』の担当編集者が立案。クリスマス前に金の帯にしたら大ヒットした。
上巻:どうしても書きたい/今までと違う小説
下巻:限りない喪失と再生/100%の恋愛小説

・単行本にあとがきがある(村上春樹の著作は彼自身によるあとがきがない)
文庫だと『蛍・その他の短編』に収録。

◎評論家の評価
当時の評論家は「『ノルウェイの森』は100%の恋愛小説ではない」という評価を下した。
だが、恋愛小説の定義とはいったい何だろう? そんなものはあるはずがない。
かつて小林秀雄が志賀直哉の『暗夜行路』を恋愛小説と評価したことがあった。
志賀直哉は「意外だが拒否はしない」と言ったという。

当時の評論家の評価は「恋愛小説とは……である」という固定観念に縛られたもので、
注意しないといけないものだ。

ではなぜ評論家がそういう評価を下したのか具体的に見てみると、
その根拠は、主人公のワタナベが自閉的だからというものだ。
ワタナベは心を開いていない、他者と結びついていない、だからこれは恋愛小説ではない
という評価だった。
(注:「自閉的」という言葉は差別語ではない。「自閉」とか「自閉症」だと差別語になるが
表現として「自閉的」という言葉を使わせてもらったと教授は直後に説明)

しかし、恋愛に一つの型などない。心を開いて、心で交わるものだけが恋愛小説ではない。
ワタナベのような主人公の形もあり、であろう。

ここまでが前置き。次から本論です。

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村上春樹を読む 10

◎ワタナベが書いている『ノルウェイの森』
・心を開くことができない主人公
・作り方に批判
→『風の歌を聴け』以上に、生と死が軽すぎる。
               ↓
『ノルウェイの森』は37歳の主人公が過去の回想を書いた小説である。
生と死を軽く書いているのは37歳のワタナベであって村上春樹ではない。
               ↓
評論をするなら37歳のワタナベを論じる形でなくてはならない。


◎37歳のワタナベはなぜ軽く書いた?
・再生という目的
→自閉的な37歳のワタナベが生と死を引き受けることができない
回想という形を取って出発しようとしている。

教授は漱石を研究している方なので、『ノルウェイの森』を『こころ』のパロディと評している。
夏目漱石の『こころ』も「私」という主人公の手記で構成されている。

上巻P12 「僕は……なのだ」と37歳のワタナベが書いている。
→何を理解したのか、問題設定があってもよい。

・小説の終りとして下手
→場所が分からない終わり方は、小説のお決まりのパターン

20歳のワタナベは居場所が分からなかった。そのことに37歳のワタナベは気付いている。
それを再確認しているが、結局再確認できなかった。
             ↓
『ノルウェイの森』は主人公がまったく成長していない。(自閉的な理由)
上巻P60 「たぶん僕は」
下巻P125、130、189、246「本質的に自分」

ワタナベ自身も自覚しているし、周囲も分かっている。
自閉的な性格をさらけ出している。

・物語があっても成長につながらない
→他人を受け入れない
→堕落も成長もない

そのまま直接的に自閉的だと書いている。

・構成
20歳のワタナベも37歳のワタナベも変化していない。
→自閉的という構成
               ↓
文学論として――言葉を拾ってもまだ幼稚である主人公


◎自閉的である論拠
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で地図が出てくる。
地図は方角を通して宇宙と関わっていた。

『ノルウェイの森』にも地図が出てくる。
突撃隊は地図を書く仕事をしたいから国土地理院に行きたがっている
ミドリは地図の解説を書くバイトをしている。
               ↓
二人とも仕事にしている(しようとしている)
一方ワタナベは最後ミドリの家に行こうとするが行くことができない。
→地図を通して、世界と関わりがもてない人間
(上巻P132に地図のバイトの描写がある)
               ↓
地図に開かれていない主人公。しかし、直子の所へはたどり着ける。
→心を病んだ場所のみたどり着ける
→ワタナベの心の在り方


◎ワタナベが唯一したこと
ワタナベは何もしていないのか?(自閉的であることを受け入れていいのか?)
→主人公の周りで物語が展開している。しかし変化はない。

ワタナベはたった一つのことをした。
→直子をキスギの所へ届けた。
=直子を自殺に仕向けた
               ↓
主人公を考えるポイント、出発点になる。

今回はここまで。

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One-line book review 8

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人
ジョン・ダワー
戦後の動乱を詳細に描いた本。流石はMITの教授というところか。
敗戦後論/加藤典洋
「ねじれ」の考察がおもしろいと思った。日本は所詮敗戦国に過ぎない。
大東亜戦争肯定論/林房雄
タイトルに嫌悪感を抱かないで欲しい。これは明治維新から敗戦までの興味深い歴史考察本だ。
敵の顔―憎悪と戦争の心理学/サム・キーン
敵を敵と見なすにはまずはイメージから。疑いもなく敵と思わせる戦略はすごい。
民間防衛 新装版―あらゆる危険から身をまもる/スイス政府
平和を叫ぶのも良いけれど、自分の身は自分で守る心懸けと準備は必要だ。煽るだけじゃ駄目ってこと。

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そして彼女は何処へ行く?

『AMEBIC』金原ひとみ
すばる7月号(7月6日集英社より単行本発売) 読了。

読んでいない方のために、分けて感想。
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One-line book review 7

the five people you meet in heaven
Mitch Albom
現代版クリスマスカロルというところか。暖かいストーリー。邦題『天国の五人』
The notebook/Nicholas Sparks
邦題『きみに読む物語』。ニコラス・スパークスの英語は読みやすいので、洋書入門に最適。
Bootleg/Alex Shearer
邦題『チョコレート・アンダーグラウンド』。ハリーポッターが苦手な人に。読みやすい。

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One-line book review 6

電波男/本田透
バックラッシュ本。プラス二次元と萌えについて考察している。この本についてはまた後日書くと思う。賛否両論ある本らしい。
LAST KISS/佐藤ケイ
電撃文庫ならこの辺読んでみれば、大体の感じがつかめると思う。
空の境界(上)
空の境界(下)/奈須きのこ
着眼点がおもしろい。ラノベはラノベのおもしろさがあるので、いいんじゃないかと。

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う~ん

2日連続で書いたものをお蔵入りにした。
文章を書くのはとてつもなく難しいものだ。
けれども楽しくもある。日々精進なり。

追記
*21日だけ公開することにしました。

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「電車男」雑感

友人が映画版「電車男」を観てきたらしい。
軽く気になる所があったから、早速聞いてみた。
「ニワトリと戯れるシーンはあった?」と。

*以下批判的な文章が続きます。それでも読みたい、と思う方のみ続きをどうぞ。
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村上春樹を読む 9(上)

◎「私」のアイデンティティ
どのようにして時間を空間に変換するのか。そして空間とはどのようなものなのか、
アイデンティティはそれらの中でどのように規定されるか。

時間的側面からみたアイデンティティ。過去―現在―未来の自己が同じだと
確信している状態。
空間的側面からみたアイデンティティ。他者・社会から承認されること。
→どちらが欠けてもアイデンティティは不安定になる。アイデンティティを維持することは
それなりに大変な作業だ。
「僕」は自己を守ろうとし、「私」はアイデンティティの時間的側面のみで成立させようとしている。
「私」はモノとしての時計と同じように生きようとしている。

時間の法則(物理的時間で成立)にアイデンティティをゆだねる――主観的時間によって
「私」は私であることをゆだねている。
→人間性を削ぎ落とした時間で「私」のアイデンティティは成立している。10月3日で
区切られているのは偶然ではない。
「私」が死なない理由――人間ではなく、ほぼ時計だから。

◎アイデンティティの個別性・不確かさ
博士は解読できる⇔深層心理(解読できない、統御できない)はブラックボックス
             →人間の根源(フロイト以降)
             →自己は思い通りにできないもの
             →本当の主人公(理性は主人公ではない)①
             +
             博士が考える深層心理
             →偶然の産物・ブラックボックスが変化したもの
             →思い通りにならないものに左右される②
             ↓
             ①・②の二重に隔てられることで自分自身が主人公になれない

◎I―Me
I(主体としての自分)=自我 Me(客体としての自分)=見られている自分
IとMeが直接対話している状態を内省と呼び、MeをIが過剰に感じている状態を自意識過剰
と呼ぶ。
自意識を持ちすぎている人は常に他人の視線を気にしているので、他者に合わせすぎる
人であり、自意識がなさすぎる人は場を乱しやすい人だ。

他者の視線を受けたIは深層心理が働いている。
「ハードボイルド・ワンダーランド」:表層的偶然性/ブラックボックスの変化
博士によると、アイデンティティを持ちつつ秩序を保たないと、シャフリングできない。
→「私」シャフリング可能+死なない。何故?
・「私」は自己の殻に閉じこもっている、社会的側面を持たないから(アイデンティティが不安定)
博士の主張
他者の視線はブラックボックスの変化(偶然)に影響を持っている。
「私」円環構造がはっきりしている→「世界の終わり」の構造につながる。
(つづく)

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村上春樹を読む 9(下)

◎位置づけと意味づけ
「ハードボイルド・ワンダーランド」:人工的な世界
「世界の終り」:自然よりももっと深い世界

「私」:意味づける存在
→世界に対して主体的でいられる
「僕」:意味づけられる存在

P42~43(上巻) 二十段下りたところで……水が左から右へと流れていることだけだった。
→おかしい表現。普通は「上流から下流へ流れる」という言い方が良い。こちらの表現が
普遍性を持つ。右から左という表現には一般性がない。方向変えたら、逆になってしまう。

「私」は川の位置づけに対して自己中心的である。

P11(上巻)1行目から4行目
上下の感覚が分かっていない。→上下という位置は誰にとっても上下
左右は分かる→主観的な位置、人によって変わる

「私」の特性:自分中心に意味づけできるが世界中心に意味づけできない。

「僕」:あっさりできる。
4章冒頭、「街の中心をなすのは……」
→僕が何処にいようといつでも中心にいられるから、そういうことが言える。
       ↓
街に意味づけされる人間――「僕」
ex)東にいる、西にいる

「僕」と「私」は実に対照的な存在だ。

P65(上巻)8行目~P66の2行目
→時を刻まないが位置は示している

◎東西南北とは
中村雄二郎は『知の旅への誘い』においてバリ島のパリンという現象を上げ、
位置について説明している。パリンとは位置が分からなくなるという意味の言葉である。
ある時、パリンに陥った少年を中心地に連れて行ったら直った、というエピソードを
引用している。
人は左右方向という方向感覚も東西南北という宇宙的な方向感覚に捉えなおさないと
ならない。

空間的アイデンティティの確立においては他者の承認が必要だ。
壁に囲まれた世界で自己と宇宙を位置づける。
→時計によって相対化されている。

「ハードボイルド・ワンダーランド」
→地上の地名が出てきて位置確認
「世界の終り」
→宇宙的トポロジーで位置確認


◎誰の視点か
P184(下巻)10行目~18行目←P185(下巻)1行目~2行目
         ~~~~~~~~   =僕が見はじめる
             ↓
       誰が見ていたのか?
    ――「世界の終わり」 一人称視点で書かれている。
     →僕を超えた視点で見ている誰かがいる。

これは村上春樹の書き損じではない。何らかの意図が隠されているとみたがよい。

「世界の終り」:この街(この表現が多用されている)
『世界の終り』しか知らない人間が「この」を使うはずがない。
          ↓
     「あの街」が存在している
          ↓
     閉じられた世界ではない


若林幹夫『地図の想像力』の中で、目が見えない人には東西南北で位置を教えるという
くだりがある。左右とは言わない。

地図を書く行為=自分と他者を位置づける行為

「世界の終り」
僕が地図を書く――位置(東西南北)を自分のものにする。
ex)東の森という辺境も書き込まれている
→端を示すと同時にその先の世界を示しているあるいはイメージしている(できる)
               ↓
「世界の終り」とは僕の身体の中で宇宙に開かれているもの。


「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」
イメージに置いて一つに重なりあっている物語


※なお、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に関する論のみ、
教授が書籍化している。『テクストはまちがわない』筑摩書房
た、高い……。

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またまた

お休み。
更新は二十日以降になります。

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なんだかなぁ

ダ・ヴィンチ7月号の特集……文学賞でひと花!
本当に売れっ子作家になれる文学賞はどれだ?

この特集の意図が分からない。
文学を商売にしちゃいけないと思うし、(文学=芸術とも思わないけど)
お金が欲しいのなら、大企業に行くのが最も安全な方法だし、(権威だって
大企業なら手にはいるかもだしね、会社興してもいいだろうし)
とにかくよく分からない。

ここ最近、文芸新人賞の選評で島田雅彦さんが嘆いている。
表向き、よい作家・作品が出てこないことを嘆いているけど、
本当はこういう特集がウケている現状に嘆いてそうだ。
売れっ子になりたいから、賞を取りたいから作家になりたいのであれば、
それは本末転倒と言わざるを得ないよなぁ。

マスコミは消費者の嗜好を酌んで、企画・特集をするのだから、
(時々、変な流れを作り出そうとするけど)
こういう特集を望んでいる消費者がいるのは間違いない。

なんだかなぁと思う今日この頃だ。

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村上春樹を読む 8(上)

今回から『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』になります。
・計算され尽くしている小説
・『羊をめぐる冒険』で失敗した時間―空間の変換に成功した作品
→2つの話に切り分けることで変換に成功した。
・パラレルワールドをうまく表現し、繋いでいる
→小物に注目、「ペーパー・クリップ」が両方の世界に出ている。
――「世界の終り」はP70(上巻)
「ハードボイルド・ワンダーランド」はP131~132(上巻)

加藤典洋さんのイエローページには「ハードボイルド・ワンダーランド」の詳細な日程表が
載っている。(1983年の9月28日~10月3日までの出来事)しかし「世界の終り」の
日程表がない。小説の性格を考慮して載せていないと考えられる。

「世界の終り」は季節ごと、月ごとに時が流れ、「ハードボイルド・ワンダーランド」では
日ごと、場合によっては分ごとにストーリーが展開していく。時間の流れそのものが
違うのである。

P29(上巻) 秋がやってくると
P199(上巻) 秋がやってきても

このように、「世界の終り」は季節単位で時間が流れている。

また2つの世界は対照的でもある。

「世界の終り」
・昼夜を意識しなければならない
・僕の意思次第で世界を終わらせることができる
・永遠の仕事――いつ果てるか分からない
・夢読みは夕方から
・大きな時計塔――止まっている=時を刻んでいるのは自然

「ハードボイルド・ワンダーランド」
・地下に潜ったりするなど、昼夜の区別が付いていない
・10月3日の正午に、一方的に外側から世界が終わってしまう
・シャフリングは時間を区切られる
・洗い出し(ブレインウォッシュ)は90分作業、30分休息機械的に区切られている
・時計に支配されている

時間が極めて対照的に扱われている。そこで時間について考察してみる必要がある。
時間とは何だろうか。
(つづく)

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村上春樹を読む 8(下)

◎時間とは
時間とは神のもの(キリスト教的解釈)
農耕の開始、自然のサイクル、四季、雨季、乾季などなど。
自分の意志とは無関係に外側から受けるものだ。
時計が開発されてから、人は時間を手に入れた。

神のものから、時間は王のものへと移行する。
権力の象徴としての時間が中世には存在していた。
時間支配を知らしめることで、自らの権力を誇示していたのである。
「世界の終り」の中心地に止まった時計がある。それはかつてそこに権力が存在していた証。

近代に入ってから時計が量産され、家庭へそして個人へと浸透していく。
そうなると、人は時間を守らなければならないようになった。例えば、列車の発車時刻や
学校生活などなど。

学校は時間によって区切られている。時間通りに体を動かせるようにするのが目的で、
ひいては国民全員がいつでも戦争に対応できるように学校(体育)が作られた。
学校の目的はリテラシー教育ももちろん入っているのだが、戦争という目的も当時には
あった。チャイムを鳴らさなくても動くことが出来るようになれば、兵隊としての基本は
出来ている。近代初期において、時間通りに動ける人はエリートのみであったから、
その効果はかなり大きい。

◎時間の時計化(物神化)
しだいに時間を守ることは社会の秩序を身につけることとなる。人を時間の奴隷にし、
内面すら拘束するようになる。

浪費・節約ということばが端的に示している。時は金なりということばがあるように、
お金のように時を扱い、それに支配されている。時間の個人化・内面化は権力の奴隷にも、
権力からの自由にもなるのだ。

村上作品は数字が重要なキーワードになる。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
では時刻に意味がこめられている。

◎「私」=時間
13章にある右、左、真ん中という位置を示すことばが多用され、4時18分、4時46分など、
時刻が多く書かれている。主人公が時計と同一化しているとここでは考えたがよさそうだ。
P59(上巻)の洗い出しの説明と13章の位置を示すことばは繋がっていると考えられる。

「ハードボイルド・ワンダーランド」の博士がP98(下巻)で思考システムの切り替えは不可能
という説明がある。しかし、「私」はP99の4行目から7行目にあるように、思考システムを
きちんと使い分けている。

とすれば、第1章の最初のほう、「私」が思考を使い分けているシーンはP98につながる複線
だったといえよう。

ここで象徴されているのは「私」=時計ということである。

ここで今回の講義は終了。続きは来週に。

注:偉そうに書いていますが、これは大学の一講義を起こしたものです。極力主観は
排しているものの、一言一句書き取るには限界があるのであしからず。

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One-line book review 5

アメリカの反知性主義/リチャード・ホーフスタッター
1960年代にアメリカで出されたものが、今の日本に当てはまっている。インテリは本当に必要ないのだろうか?
マクドナルド化する社会/ジョージ・リッツア
合理性を追求すると、人は根無し草になる。それに疑問を持つか、勝ち組を目指すか……その人次第。
緑の資本論/中沢新一
安全球体の中では、芸術や宗教は衰退する。そりゃそうだ。
脱牛肉文明への挑戦―繁栄と健康の神話を撃つ
ジェレミー・リフキン
牛肉騒動が馬鹿馬鹿しいと思った人に捧ぐ。
アメリカを幸福にし世界を不幸にする不条理な仕組み
カレル ヴァン・ウォルフレン
グローバリゼーションについて考えてみますか。日本に対する視点にクセがあるのは否めないけど、何も読まないよりはマシってことで。

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One-line book review 4

ゲーテ格言集/ゲーテ
チクリとくる格言があって、実にいい。
愛のアフォリズム/ブリギッタ・ロート
はいそうですすいません、という箇所がみんな多々あるんじゃないかと。
人生を3つの単語で表すとしたら/一倉宏
数ページで終わるのにストーリーの情景がありありと浮かんでくる。小説と小説の箸休めに。
サンクチュアリ―夢を追い続けた堕天使たちの「旅」の記憶
高橋歩
10代の内に読みたい本。突き抜けて、そのまま突っ走れ。
心を決めたあのことば〈4〉あのひと言があったから
心のメッセージ21委員会
その人が語るからこそ、ことばは心にしみこんでくる。
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One-line book review 3

掌の小説/川端康成
「雨傘」は名作。どの作品も気軽に読むこと可能。
小僧の神様・城の崎にて/志賀直哉
予備校の先生が「5浪ぐらいしたら『城の崎にて』の冒頭を読んでみろ~死にたくなるから」と冗談交じりに言った。納得。それ以来、名作なのにくすっと笑うようになった。
われらの時代・男だけの世界/アーネスト・ヘミングウェイ
「二つの心臓の大きな川」は名作。ヘミングウェイは苦手だけれども、これはすごいと思った。
野上弥生子短篇集/野上弥生子
「茶料理」は純愛小説の鏡。後半が特にいい。
ブログにも取り上げました。
ジョゼと虎と魚たち/田辺聖子
P193~194のやりとり、P203~204のくだり、いいよね。

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村上春樹を読む 7(上)

村上春樹を読む 6(上)  村上春樹を読む 6(中)  村上春樹を読む 6(下)

◎自己神話化・父殺し
教授は夏目漱石の『道草』を引き合いに、自己神話化について語る。
『道草』は漱石の晩年の作品。作家へのプロセスについて語った自伝的小説。
自己神話化を行う場合、一般的には漱石のように自分の死が視野に入った時にするものだ。
しかし、村上春樹は簡単にあっさりと死とセックスを扱う。死とセックスは小説の山場となる
ものなのに。

太宰治のデビュー作は『晩年』だ。自分を殺した時点から作家を始めている。つまり、実人生が作品をなぞっていく形だ。

村上作品は夏目漱石と太宰治のパターンをミックスしたものだ。つまり、死から自分を観て、
初期作品を後の作品がなぞっていく形を取っている。

『羊をめぐる冒険』はどんな自己神話化をしているだろうか?
前回は「時間を取り戻す物語」「他者の時間を奪う物語」について語った。前回を踏まえつつ、
本論。

P223(下巻) 部屋を出る時、羊博士は机にうつぶせになって声を殺して泣いていた。僕は彼の失われた時間を奪い去ってしまったのだ。それが正しいことなのかどうか、僕には最後までわからなかった。

時間を取り戻すことは自分と人を重ねることだ。父殺しの場合、自分と父を重ねることだ。
他者の時間を奪う、もしくは譲りとる。そうすることで自分のポジションを得る。
下巻のP230のラストシーンとP223は関連がある。「僕」が殺すべき父とは羊博士。
闇の世界の男に父は北海道にいると知らされ、そして羊博士を見つけ、彼の時間を奪う。
そして「僕」は「僕」自身を取り戻す。

◎結論なし
結論を出すに当たり、2点難しいことがあるから、まだ教室に来てからも結論は出ていないと
正直に教授は言う。

1つは時間を取り戻すことについて。
ストーリの流れとして、前半は時間的、クロニクルな話で後半は場所移動の話、空間的な話が
中心となっている。しかし、8章の10、12に時間に関するキーワードが入っている。
時間―空間―時間というサンドイッチ的な構造になっており、時間と場所が結びついている。
→北海道に過去がある。

教授は時間と場所が結びつくのはいいけれども、それをどう意味づけすればいいのか
難しいと言った。また、北海道に過去がある、それが何故なのか分からないそうだ。

2つめは名無しについて。
猫がいわしとつけられる。猫に魚の名を付ける、これは一見すると変な話だ。しかも、名前を
つけるべき人間(=「僕」)が付けていない名前だ。「僕」は何もしていないに等しい。

P12~13(上巻) 彼女の名前は忘れてしまった~それが彼女の名前だ。
ここのくだりは、「僕」が名前を積極的に拒否している箇所であり、個別性を持たない
交換可能な存在として男が描かれている。

P32(上巻) 「誰とでも寝ちゃう女の子だったんだ」~「……砂時計と同じね。砂がなくなってしまうと必ず誰かがやってきてひっくり返していくの」
――「僕」は交換可能というわけではない。特別なあなたなのだ。そして、砂時計の例えと
直接的に結びつく箇所がある。

P197(下巻) 「ねじを巻く」
村上作品の主人公は巻き込まれ型の人間だ。時間を他人にゆだねると――
「ひっくり返される」のだ。P197では鼠にねじを巻いてもらっている。

時間は根源的なものだ。要するに自分のものだ。しかし、村上作品の主人公は時間すら、
他者が握っている(=他者任せ)のだ。
(つづく)

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村上春樹を読む 7(下)

◎アイデンティティ・実存
自己のアイデンティティを確認するには2パターンある。一つは自分で確認。もう一つは
他者の了承。村上作品の主人公がどこか虚無的なのは、自分で確認することを拒否し、
他者の了承だけに任せているところがあるからだ。

P180(下巻)に鏡の描写がある。小説において鏡は異世界への入口、あるいはもう一人の
自分を映し出す道具となる。『羊をめぐる冒険』では後者だ。しかもP180で「僕」は鏡の自分と
現実の自分がひっくり返った感じを受けている。

P181(下巻)「自由意志」と「彼」ということば。本当に自分は自由意志を持っているのか? 
意識的にやれるものなのか? あるいは本当に自由意志は存在するのか? もしかしたら
鏡の中の彼が仕向けてきたのかもしれない。

このような根源的自由について考えることを実存主義という。例えばサルトルが有名だ。
文学作品ではカミュの『異邦人』が有名だ。有名な冒頭「きょう、ママンが死んだ。
もしかすると、昨日かも知れないが、私には分からない」はまさに意志が入っていない
セリフだ。主人公ムルソーは人を殺した理由を「太陽のせい」にする。人の自由意志は
存在しない、もしくは自分で決めることができない……こうした問いについて考えるのが
実存主義であり、『羊をめぐる冒険』は実存主義を下地にしている。

時間にリアリティを持つことができない「僕」。自由意志が感じられない。しかしP32(上巻)で
「あなたとは別だったんでしょ?」とひどく個別的な扱いを受けている。

P70(上巻) 「あなたって、何もわかっていないのね」 「それはあなたが自分自身の半分
でしか生きてないからよ」
P40(上巻) 「僕は既に失われた人間だった」
P100の(a)(b)

自分は自由意志を持って生きてきた=自分は必然で生きてきた。
砂時計をひっくり返す=偶然に任せる

『羊をめぐる冒険』は人生は必然なのか偶然なのか、どちらなのか? という問いを
発しているのだ。

時間を取り戻す――実存的――ことは必然的な行為となる。
一方P102(上巻)で「いったい何故僕はここにいるんだろう?」という空間的な問いを
「僕」はする。ここは冒険が始まろうとしている箇所だ。

教授が問題にしているのは、この時間と空間のズレだ。何故時間を取り戻す話が空間に
変換されるのか、それが分からないと教授は言う。時間と空間の切り替えがかみ合って
いない……これは構成的に破綻した失敗作ではないだろうか、と言って教授は締めくくった。

以下雑感。ストーリーとしての『羊をめぐる冒険』は面白いと思うが、構造的には
少々難があるようだ。ストーリーを読めるのは前提であって、読み解く力を教授は求めて
いる。教場試験で感想を書いたなら、低い評価が容赦なく来るだろう。この授業は思いの外、
教養が要求される。この授業をきっかけに村上春樹作品を読もう! と思っている人や
実存主義・構造主義といった人文系思想に興味がない人にはちょっときつい授業だろうな。
自分もついて行くのに必死だし、このブログ自体きちんと書けているのかどうかわからない。
筆力が足りない、そんな自覚を持ちつつ筆力を上げることに精進しよう。

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