Reading Tour

よく停滞、時に更新、きままな読書系ブログです

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ブログから遠ざかる

というつもりではなかったけれど、一週間ぶりのエントリーになりました。
実生活で卒論やらプレゼンやら何やらで、更新できない状態でした。
まだ卒論だって終わっていないし、しばらく、虫の息更新が続くような気がします。

もっとも、一番の原因はmixiなのかも。

1ヶ月半前からmixiに招待されました。友人がやってて、マイミク増やしたいからやろうよ!
と誘われ、自分もmixiやり始めました。

mixiはブログよりもお気楽に、いや、むしろ大暴走して日記を書いているから、
書きやすく、ほぼ毎日更新しています。。。
こっちは気合い入れてじっくりと、という感じで取り組んでいます。

両面性を持って書くのは、それはそれでおもしろいので、
ブログのスタイルは変えないでおこうと思います。

こっちはこっちで、mixiでは語れない書きたいこと・伝えたいことがあるし、うん。

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舌の記憶

幼いころから、甘いものが好きで好きで仕方なかった。

焼き上がったトーストの上にチョコを塗り、それを囓る。ほんの少しだけ舌に染みこむパンの塩気と
チョコの甘ったるさがわたしにこの上ない幸福感をもたらしてくれた。食べられるならいつまでも
食べていたい、そんな気持ちを抑えつつ、そのまま小学校へ向かっていった、あの頃。

すっかり忘れていた、この頃の自分――あの頃と違って、制限するものは何もない。
子どもの頃の夢叶う。そして、その夢を想い出として留め、欲深く何かを追い求めている日々。
たとえその欲を満たしても、また新しい欲がいやらしくも現れ、深く考えずまた追い求める。

そんなある日、いつものようにコンビニへ寄った。小腹が空いたから、ポテチやチョコを買うために。
手に取ったのは森永ダーツ。しかも期間限定のジャンドゥーヤというチョコ。たいした理由はない、
目についたから取っただけにすぎない。

持って帰って、ダーツを一口ぱくりとほおばる。舌に味が広がったその瞬間、とっくに忘れていた
記憶が強烈にフラッシュバックした。幼いころ、いつまでも食べていたかったあのチョコの味が
甦った。はじめは何だか思い出せなかった。だけど、この味は「知っている」。
頭をフル回転させ、記憶を紐解いていったら、トーストの上に塗っていたあのチョコの味を
思い出した。

もちろん、あの当時、ジャンドゥーヤというチョコは存在しない。ただ、自分が食べていたのは
チョコはチョコでもビターでもミルクでもなく、ナッツチョコだったのだ。すべてを思い出した瞬間、
郷愁にも似た、あたたかい高揚感でいっぱいになった。

その高揚感は、ジャンドゥーヤのおいしさとあの頃の想い出が仲良く紡ぎあったもので
大部分を占めている。でも、あの頃を思い出すにあたり、大事な仕事をしてくれた彼に
最大限の賛辞を送らねばならないだろう。

好きで好きでたまらなかったあの味を覚えてくれていた舌の記憶に感謝を。

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語録・名文5

◎「LOVE」と「LIKE」はどう違うのかと聞かれて、「ラブ」は「ライク」より強いのだろうと答えたら「程度の問題ではない」と、人に教えられたことがあった。その先生は、「LOVE」は異質なものを、「LIKE」は同質のものを求めることで、そこが違うのだという説明の仕方をした。このはなはだ哲学的な解釈が、言葉の説明としても正しいのか、どうかは知らない。しかし、聞いていて、なるほどと思った。
(深代惇郎、コラムニスト、『深代惇郎エッセイ集』より。これを実践するのは本当に難しい。が、常に心に留めておきたいものだ。)

◎文士はいつまでたっても自分に満足することは全然ない。
(三島由紀夫、作家、『対談人間と文学』より。満足しているorした輩は作家ではない、と。)

◎たとえば伊藤仁斎の場合、かれは塾を開いて月謝だけで暮らしをたてていた。弟子は、あらゆる階級にわたり、金持の商人などもたくさんいたらしいが、そういう連中は、道楽という道楽はしつくして、学問が最後の道楽になったとも思えるんですね。仁斎先生のところへゆけば人生がわかる。暮らしてゆく意味がわかる。これは酒や女よりおもしろい。
(小林秀雄、評論家、『小林秀雄対話集』より。学問って本当に奥が深い。そして、おもしろい。)

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くっすん大黒/町田康

町田康『くっすん大黒』文春文庫

 文字だけを読んで笑うことなんてそうそう無い。
普段笑う時、五感を複数使って笑っている。
相手の表情、イントネーション、声の強弱、身振り手振り等々
こういうのが揃って、人は笑う。
だから、文字だけで笑うなんて、なかなかあり得ない話だ。

『くっすん大黒』は数少ない、文字だけで笑ってしまう作品だ。

勢いがあるというか、登場人物のダメっぷりに、またストーリーの荒唐無稽さに笑みがこぼれる。
一言でいえばシュールなのだ。表題作だけではなく、「河原のアパラ」にもこのシュールさが
継承されている。特に「岐阜屋の牛丼」のくだりは、家で読んでいなかったらこらえるのに
一苦労しただろう。

百聞は一見にしかず。面白いですよ。
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死に至る病/キェルケゴール

キェルケゴール『死に至る病』岩波文庫

死に至る病とは絶望のことである。
絶望は罪である。

一章、二章の各章がこのようにして始まる『死に至る病』ですが、
非常に難解。大学1年の時にチャレンジして、
あまりの難解さに絶望し、あきらめ、3年時に
再度チャレンジしてやっと読み終えた代物です。

今回は内容を簡略化してこの本を紹介していこうと思います。ですから、当然穴もあります。
正確に知りたいなら、買って読むが一番です。

なぜ絶望は死につながる病で罪なのかというと、
絶望する→絶望ばかり考えるようになる→それがさらなる絶望をまねく→繰り返す
 →自己嫌悪→神の信仰を忘れる(当時は宗教の時代)→忘れるというのは重大な罪
  →だからといって絶望を振り払おうとすると自分ではなくなる→神ですら救えない
   →独りで絶望を背負う→永遠とループ

死んでしまうよりも、苦悩しながら生きる。絶望というのはそれがやはりきついわけで、
神の信仰を抜きにすれば、現代にも当てはまるんじゃないかと読んでて思いました。

この他にも「有限性の絶望」、「気付いていない絶望」、「気付いている絶望」、
「弱さゆえの絶望」などなど、色々書いてあります。

通読して言えることは、何でも悩みすぎるのは良くないんじゃないかと。
苦しみを自分の内に溜めてしまっては、その苦しみはどんどん重く、つらくなるだろうから。
外にはき出す、そう努めようとすれば、最悪の事態は逃れられるだろうと思います。
もっとも、それですべてが解決するとは思いませんし、外にはき出すことの限界だってあります。

とはいえ、この本が伝えようとしている絶望を知ることは悪くないことだ
と主張して今回は筆を置きます。
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一番逢いたくて、でも逢いたくない人

人生そのものに影響を与えた恋人がいた。
初めて恋愛で本気になった。
青臭さはあったものの、自分なりに必死に尽くした。

でも、こちらが本気になればなるほど、相手は冷めていき、
そして、離れていった。
決定的な別れ――連絡を取らない、逢わない……
そうなってから、もう3年も経つ。

恋人に対する想いを残したまま、別れてしまったから、
当時、友人たちには本当に迷惑をかけた。
ことばでは言い尽くせない、さまざまな負の感情が、
あるいはほんの一握りの可能性について――。
十中八九、引かれてしまうセリフを友人たちにたくさん吐いていた。
(その話を聞いてくれた友人たちには、本当に感謝したりないほど感謝している。)

今ですら、ふっと浮かんでくるほど、強烈な感情を残した恋人。
逢いたくもあり、逢いたくない存在。

そんな元恋人を、この前、見かけた。

気付くのが遅かったから、そのまま見失った。
おそらく、向こうも気付いていないだろうし。

逢いたいけど逢いたくない、そんな元恋人だから、
声を掛ける? 掛けない? こんな判断ですら、躊躇した。
葛藤が空間を閉ざした。広い東京でこんな偶然はもう二度と起きないだろう。

でも、元恋人だと分かった時の、あの、胸の高まりは今もまだ収まらない。
こうしてブログを書いていたら、少しは収まるかと思っていたのに、ちっとも。

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One-line book review 15

四十日と四十夜のメルヘン/青木淳悟
この手の作品を書く作家が最近出てこなくて悲しい。
まぼろし/生田紗代
ブログで辛めに評価したものの、この人には期待している。
イッツ・オンリー・トーク/絲山秋子
そろそろ芥川賞とか直木賞を取ってほしい人。この本で芥川賞受賞させときゃよかったのに。

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大学祭に寄せて

昨日、今日と大学祭が行われている。
幸いにして、今年は行くことがなかったのでよかった。

祭なのだから、楽しまなければ損、損。
日常の立振舞いを思いっきり忘れ、弾けてこそ、
年に一度のお祭りが盛り上がるのだ。

ちなみに、昔の大学祭と今の大学祭はちょっとだけ違う。
昔(といっても10年前ぐらいまで続いていた)は、政治的サークルが
運営資金を調達するために屋台をやっていたらしい。
その一方で、騒ぎたい連中が代々続いてきた先輩たちの技術を
受け継ぎ、プロ顔負けの屋台をやっていた。

今、大学祭をやっている人たちは騒ぎたい連中ばかりで、しかも
高校の文化祭を延長した申し訳ない程度の屋台ばかりで賑わっている。
政治を切り離そうとした負の側面として、技術の継承が断たれたというわけだ。
それでも楽しまなければ、不粋以外の何ものでもない。

いつからだろうか、自分がそういうことの主軸から外れていったのは。

気が付くと、妙なズレを感じていた。楽しむにも楽しめない、
自分と人をつなぐ何かがゆっくりと音も立てずに離れていった。

大学祭なんて所詮みんなの自己満足にすぎない。
「みんながんばろうよ」ぐらいのやる気と団結力で、想い出を創っているに過ぎない。
……数年後、居酒屋談義で盛り上がるネタの一つにカウントされるのだろう。
「あの時はすごい楽しかったね」と。

わたしは、あの、閉じた空間が非常に嫌いだ。
何者も寄せ付けない、当事者だけの秘密の共有話を聞いただけで、
全身がもぞもぞとむず痒くなる。
同時に頭の中に浮かんでくるあるフレーズが何度もよぎる。

「なぜ楽しいが過去形なの?」

こういうことを考え出すようになってから、この手の騒ぎに入っちゃいけない、
そう思うようになった。参加はしない、見るだけ。それでもいい。
自分が「何か」を失ってしまったことは理解できる。
別の「何か」を手に入れたのも理解できる。

「小さくても、確実な、幸福」

村上春樹が語ったそのことばがさっきから頭の中でリフレインしている。
まったく、困ったものだ。

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