Reading Tour

よく停滞、時に更新、きままな読書系ブログです

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One-line book review 18

最後の息子/吉田修一
うまい。いろいろな意味で。最近の作家の中でも実力ある人。
猛スピードで母は/長島有
オカン小説。筆致は穏やかだけど、登場人物は激情を持つ。かつ、愛らしい。
ぐるぐるまわるすべり台/中村航
いい気分で読み終えることができた、さわやかな青春小説。
ハミザベス/栗田有起
ネーミングセンスがあるなぁ。ハミザベス……なるほど。
センセイの鞄/川上弘美
出てくる食べ物が美味しそう。居酒屋やおでん屋で一杯やりたくなる。

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今日の収穫

例によってジュンク堂に行って買い物。

今日は二冊。
豊島ミホ『陽の子雨の子』講談社
彦素勉『芥川賞90人のレトリック』
潮文社

で、帰り。

ブックオフで単行本ALL500円セール。
五冊購入。
辻邦生『遙かなる旅への追想』新潮社
フィリップ・クローデル(著)高橋啓(訳)『リンさんの小さな子』みすず書房
村山由佳『天使の梯子』集英社
村山由佳『晴れ ときどき猫背』集英社
絲山秋子『逃亡くそたわけ』中央公論新社

やっと『天使の梯子』を手に入れた。これ、実は「小説すばる」で
三回にわたって連載されていた時に本屋で毎月しぶとく立ち読みしてました。
ずっと欲しいなと思ってただけにめぐり会えて良かった良かった。
『天使の卵』も映画化されるし、久々に読んでみよう。

東京は雨。だから今日は読書日和。雨音が心地良いね。

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語録・名文9

◎「銃後」の一般国民の精神を戦争に参加させて了(しま)うと、彼らの精神は実際の戦場で生死をかけさせられたつらさを知らないだけに、経験を欠いた戦争意欲の塊が全社会に爛漫(らんまん)することになる。経験を欠いた欲望は無闇に昂進する。戦闘経験を持たない者の戦闘意欲は、実態の過酷さという抑制の根拠を内部に持たないために、徒にひたすら燃え上がるばかりである。第一次大戦中に交戦各国の国民の間に「ナショナリズム」の異常な昂進が国家史上始めて起こったのはこの故であった。そうして異常な意欲を説得によって鎮めることはほとんど不可能に近いほどむつかしい。
(藤田省三、政治学者、『全体主義の時代経験』より。歴史は繰り返される、と。)

◎大岡さんの『俘虜記』を雑誌で最初に読んだのは、まだ終戦直後といっていい時代だったのであり、私はその文章力と、人間を正確にみつめようとする目に感動したのであるが、それとは別の一種の爽快感を味わった。それは、今後の自分の進む道がはっきりしたということである。
 たぶん、私は、大岡さんと同じ状況に置かれたならば敵を撃たないだろうと思った。そこから進んで、私は、撃たれる側に立とうと思うようになった。
 これは不戦の誓いというような勇ましいものではなく、私はその種の運動に参加したことはない。しかし、撃つよりは撃たれる側に廻ろう、命をかけるとすればそこのところだと思うようになったのは事実である。
(山口瞳、作家、エッセイスト、『男性自身――卑怯者の弁』(絶版)より。『山口瞳「男性自身」傑作選 熟年篇』にも再録されています。「撃つよりは撃たれる側に廻ろう、命をかけるとすればそこのところだ」という部分に注目して欲しい。)

◎最後までトコトンやるべきよ。占領して国をつくり替えなければ。それに膨大な費用がかかるというのなら、イラクの石油収入から工面すればいいじゃないの。
(マーガレット・サッチャー、元英国首相、「週刊朝日」2003年1月24日号より。首相当時、ブッシュ大統領(パパブッシュの方)がバグダッドまで攻め入らず、途中で進軍をやめたのに対して、尻をたたいたセリフ。何とも勇ましい。で、蓋を開けてみての現状は……)

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One-line book review 17

こころ/夏目漱石
久々に再読してみようかな。何だかんだで名作は名作だね。
痴人の愛/谷崎潤一郎
昔も今も「ナオミ」はいるよね。
人間失格/太宰治
「生まれてすみません」はこれだったっけ。
潮騒/三島由紀夫
展開は分かりやすいし、文章も質実剛健。三島作品の中でも短い方。
砂の女/安部公房
結末を読んでから、はじめの一文を読むとその一文があまりに深くてぞくぞくした感覚が襲って来る。

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One-line book review 16

高瀬舟/森鴎外
尊厳死についてどう考えるか。『高瀬舟』の場合はやるせない結果だけど。
山月記/中島敦
気を引き締めるには良い本。定期的によく読みます。
檸檬/梶井基次郎
もう檸檬を置いた場所がないんだよなぁ。
羅生門/芥川龍之介
人間の本質をここまで突いている小説はなかなかないのでは。
桜の森の満開の下/坂口安吾
ラスト20行ぐらいが妙に印象的。なんでだろう。

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ナラタージュ/島本理生

島本理生『ナラタージュ』角川書店

1ページ、1ページをめくるたびに、何度も何度も
自分の過去を思い出しながら、この本を読んでいました。


ナラタージュとは映画などで、主人公が回想の形で、
過去の出来事を物語ることだそうです。

この小説自体、すごくありふれた題材だし、構成も単純だから、その後の展開が簡単に
読めてしまう。登場人物に反感を覚えなくもない。例えば、葉山先生のせこい性格だったり、
小野くんの後半の豹変振りだとか。あるいは会話に不自然な部分があったりとか。
小説そのものの出来は決して良いとはいえない。

それでも『ナラタージュ』は良い小説だと思う。

帯に小川洋子さんがこう書いている。
「封印したはずのあの痛みを、よみがえらせてしまう小説」

ここで冒頭に書いた自分の感想、
「自分の過去を思い出す」ことと「封印したはずのあの痛みを、よみがえらせてしまう」ことが
重なっちゃったわけです。

人生の主人公は他ならぬ自分自身。どう演じるかも自分自身。
そのわたしが、自分の二十歳前後の恋愛を『ナラタージュ』を読みながら、
あるいは読み終えたあと、「ナラタージュ」させられた、というわけです。
これはやっぱり凄いことだと思う。

過去を喚起させる力を持った小説がつまらないはずはない。
これが作家、島本理生の実力なんだと思います。
小説に磨きがかかったら、もっともっとすばらしい作家になるんじゃないでしょうか。

追記06/9/24
本人のインタビューがWeb本の雑誌の「作家の読書道」に載ってます。
こちらも参照してくださいな。

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語録・名文8

◎そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。日頃のような怖れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。
 桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。
 彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした。
(坂口安吾、作家、『桜の森の満開の下』より。)


◎二人で吉野に籠ることはできなかったし、桜の下で死ぬ風流を、持ち合わせていなかった。花の下に立って見上げると、空の青が透いて見えるような薄い脆い花弁である。日は高く、風は暖かく、地上に花の影が重なって、揺れていた。もし葉子が徒花なら、花そのものでないまでも、花影を踏めば満足だと、松崎はその空虚な坂道をながめながら考えた。
(大岡昇平、作家、『花影』より。)


◎外に出ると、ただ、呆れるばかりの夜桜である。千朶万朶枝を圧して低し、というような月並みな文句が、忽ち息を吹返して来るのが面白い。花見酒というので、或る料亭の座敷に通ると、障子はすっかり取払われ、花の雲が、北国の夜気に乗って、来襲する。「狐に化かされているようだ」と傍の円地文子さんが呟く。なるほど、これはかなり正確な表現に違いない、もし、こんな花を見る機は、私にはもう二度とめぐって来ないのが、先ず確実な事ならば、私は、そんな事を思った。何かそういう気味合の歌を頼政も詠んでいたような気がする。この年頃になると、花を見て、花に見られている感が深い、確か、そんな意味の歌であったと思うが、思い出せない。花やかへりて我を見るらん、――何処で、何で読んだか思い出せない。
(小林秀雄、批評家、『考えるヒント』より。)

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坊っちゃん/夏目漱石

夏目漱石『坊っちゃん』岩波文庫・新潮文庫など多数

 今年は『坊っちゃん』が発表されて100周年だそうだ。
そこで、久しぶりに読み返してみた。
そして気合い入れて書いてみた。

『坊っちゃん』で印象的なキャラクターは主人公である坊っちゃん。
そして敵対関係にある赤シャツだろう。その他は味方側につく
山嵐、敵側の野だいこなどなど、魅力的なキャラクターばかりだ。

 奔放というより野放図という言葉が似合う坊っちゃんは作中で大暴走する。対し、
父親は「何もせぬ男」、母親は死ぬまで坊っちゃんを叱り続けた。母親のセリフの中に
「兄許りを贔屓にして居た」とある。坊っちゃんは腫れ物扱いだ。
これを現代に当てはめてみると、坊っちゃんは両親にネグレクトされているのではないだろうか。

 そんな坊っちゃんは赤シャツと対立する。その赤シャツは日本特有の概念「世間」を
そのまま人にしたようなキャラクターだ。とにかく、学校の秩序を乱そうとする坊っちゃんに
何かと難癖をつけてくる。

 赤シャツ自体、そのまま当時の人間を象徴的に表している。単なる田舎者としても十分通じるが
当時は「文明開化」がなされ、ハイカラがもてはやされた時代で、人々は外見ばかりがハイカラで、
中身は旧態依然たる「世間」にどっぷり漬かりきった人たちばかり。西洋から帰国して早々
「世間」と対面し、うんざりした漱石・荷風の苦悩が『坊っちゃん』上にも垣間見える。

 現代に当てはめてみるなら、西洋人に憧れつつも必死になって何とか追従しようとする
日本人が浮かんで来る。一方で、自分より劣るものに対しては、居丈高な態度を取り
見下そうとする。アメリカに憧れ、慕いつつも、中韓に強硬論を採る日本・日本人の姿は
100年前と何ら変わっていない。

 とはいえ「世間」のすべてが悪というわけではない。「世間の眼」という言葉が表すように、
コミュニティーの平穏を保つうえで、十分その機能を果たしている。また、独自の文化を
「世間」は生み出す。

 作中、「べらんめえ調子」「金や太鼓でねえ、迷子の迷子の三太郎」「なんこをつかむ」
「そりゃ聞こえません伝兵衛さん」など出てくるが、どれもこれも日常から生みでた言葉だ。
もっとも、坊っちゃんは「べらんめえ調子」でそれらを否定するのだが。

 ここで、坊っちゃんの態度と現代人の態度が結びつく。グローバル化による「文化の空洞化」だ。
グローバル化は世界を狭くし、地域間格差をなくすと同時に、「世間の眼」や「躾」といった
「非言語系の知」をなかったもののように消失させる。
「世間」が弱体化する一方で、躾をうけていない「坊っちゃん」たちが縦横無尽に闊歩する。
一方「赤シャツ」は当時最先端であったのに、今や時代遅れの遺物と化している。

 東京に戻った坊っちゃんは、母親代わりの清とともに暮らす。清は坊っちゃんのすべてを
肯定する。両親にろくな愛情を注がれなかった坊っちゃんにとって、清の存在は大きい。
しかし、坊っちゃんからすると「癒し」そのものである清は、逆を言えば甘やかしているに過ぎない。
大好きな東京、すべてを肯定してくれる清、仕事は嫌なら辞めてくる。こんな「お坊ちゃん」な
坊っちゃんが結婚するとは考えにくいし、当然子供も作らないだろう。

 分かりやすい単純な価値観で坊っちゃんは赤シャツに対抗し、彼らを否定していく。
現代人は? 似たようなものだろう。単純な価値観(例えばデジタル思考、右翼左翼、
勝ち組・負け組等)で自分の思うがままに振る舞い、自分の環境(職場・学校)が嫌なら
キレて辞め、実家でぬくぬくと暮らす。結婚もしないし、子供も作らない。
うまくいかなくなれば暴力をふるいだす。坊っちゃんとどこが違うだろうか。

 さて、漱石はあの世で今の世の中をどのようにみているだろうか。


※「世間」がよく出てきたので、一冊本を紹介。
阿部謹也『「世間」とは何か』講談社現代新書
まんま、「世間」について考察した本です。

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語録・名文7

◎「こんなことしちゃだめなんだよ、名前も知らないような男の前で、裸になったりしちゃだめだ、それを知ったらすごくいやがる人がいるんだ、誰にだって、必ずいる、そいつが一人でいる時に、悲しくて辛くて泣きそうで一人でいる時に、そんな時に、そいつの大切な女が、男の前で裸になってるって知ったら、どんな気分だと思う? お前はわかってない、こういう時、自分のことなんか誰も考えてないと思ってる、こんな、胸とか触られて、まっ裸で、こういう時に、どこかで誰かが死ぬほど悲しい思いをしてるんだよ」
(村上龍、作家、『ラプ&ポップ』幻冬舎文庫より。この小説の最も有名なシーンの一つ。10年ぶりに掘り起こして読んでみるのも良いんじゃないかと)

◎「正直な話、私はこれまでにけっこうたくさんの男とセックスしてきたけど、考えてみたらね、それは結局のところ、恐かったからやねん。誰かに抱かれてないと恐かったし、求められたときにはっきりいやと言えなかったから。それだけ。そんな風にセックスしてもね、なんにもええことなんかなかった。生きてく意味みたいなもんが、ちびちびすり減っていっただけやった。」
(村上春樹、作家、『アフターダーク』講談社より。こっちは喪うむなしさを強調している感がある。)


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ぼくのともだち/エマニュエル・ボーヴ

エマニュエル・ボーヴ(著) 渋谷豊(訳)『ぼくのともだち』白水社

 まー何とも救えない主人公というか何というか。
バトンは友達が欲しい。欲しくて欲しくて仕方ないんだけれど、
悲惨なほど相手に対する接し方が下手で下手で仕方ない。

 友達になりたいけれども、その欲求以上に自尊心が高い。
プライドの高さが相手を憤慨させる、無視させる。結局バトンは独りに。
「ともだちが欲しい。本当のともだちが!」とひとりごちる。

 弱い存在なのに、ちょっと馴れ馴れしくされただけで居丈高と感じ、自分から相手を
敬遠しだす。原因はバトン自身にあるのに、愚痴愚痴と相手を見下しつつ「ともだちが欲しい」と
語る根暗な様は、太宰治を思わせる。

 友達という概念を神格化して、自分が求める意味以外の友達を認めない意固地なバトンは
読む側として憐れとしか思えないが、実際、身近なところにバトンくんは存在するんじゃないかと
考えると、俄然この小説にリアリティが伴ってくる。関係不全、集団でいるより一人の方が気楽、
でも一人でいることに押しつぶされてしまう世代っていうのが、20代以下にたくさんいる。

「強い人は、孤独でもさみしさを感じない。でも、ぼくは弱い。だから、ともだちが一人もいないと、ぼくはさみしい」
と結ぶ、この本はある人にとってものすごい共感を得るんじゃないだろうか。

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イッツ・オンリー・トーク/絲山秋子

絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』文春文庫

 あっけらかん、さらっと、からっと、淡々と、
そういう表現が似合うこの作品。
だから、文体から感じ取れる
ほのかな淋しさっていうのがやんわりと伝わってくる。



 例えばP22~23にかけてのくだり。「誰でもいい」「あきらめ」「拒否」、P40「中途半端」、
P43「未練」、P68「猫」、P79「私はゼロ」、P81「空虚」、P85「祭は嫌い」、
P86「あるところに……おわり」そして、タイトル「イッツ・オンリー・トーク」=ただのお喋り。

 どれも淋しさを表す言葉や表現が定期的に使われている。
全体を通して、どこか寂寥感を覚えさせるのは繰り返しの効果が効いているからだろう。

 話の展開もどこか淋しさを覚える。ゆっくりと、徐々に登場人物は優子の前から
いなくなる。誰も彼もいなくなったとき、最後に残っているのは野原理香という「死者」。
死者は過去しか語らない。未来には行ってくれない。やはり悲しい。

 また、からっとした文体の「からっとした」というのは、つまり、乾いた(=渇いた)ということ。
渇きを覚えるとき、人は既に何かに餓えを覚えている。渇いた文体の終盤、つまり餓えがピークに
達したとき、優子の性欲が増し、「痴漢」とセックスするのは、この文体が続くうえで
欠かせなかった行為と言えるのではないだろうか。

 最後に、この小説の奇妙なところを指摘すると、登場人物はみな一様にまともではない
どこか破綻した部分を持った人間ばかりなのに、ストーリーそのものはきちんと行儀良く
収まって終わる。登場人物全員が自分の元の場所へ戻っていく。物語の構造としては
至極普通という点だ。このアンバランスな点が新人賞を取ることができても、芥川賞を
取れなかった理由だろうと推測してみる。


※表題作の他に「第七障害」と解説があります。この解説がおもしろい。
ただの書店員さん(といってもその界隈じゃ有名な人だろうけど)が書いてます。
しかも絲山さん自身が書くように勧めている。こういう試みがなされるのは
良いんじゃないでしょうか。

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小鳥はいつ歌をうたう/ドミニク・メナール

ドミニク・メナール(著) 北代美和子(訳)
小鳥はいつ歌をうたう』河出書房新社

 ふと、映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」が頭の中によぎった。
主人公の意固地な性格が似ていたからだ。

「わたし」は他人を寄せ付けない。「わたし」と娘のアンナとの間にある
大事で特別な二人だけのつながりを「わたし」は保とうとする。
たとえその行為がアンナを縛り付けているのだとしても、たとえ自分たちが
世間から隔絶されたとしても。そして、そのつながりを乱そうとする教師のメルランはトリックスターの役割を負っている。

 だから、「わたし」とメルランが体をかさねたあと、二人はくっつかない。一方的に「わたし」の
方から離れていき、そしてよりアンナとのつながりを強くするために「わたし」はアンナと
二人きりになれる場所、しかも「わたし」にとって過去である場所へと向かう。

 過去が「わたし」と何度も物語中で交叉し、アンナもババ・ヤガーという過去の人物と
「言葉」というキーワードで象徴的に重なりあう。ラストシーンで「わたし」は過去と対峙する。
そして「わたし」は未来を切り開く。そこで物語は終了する。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と違う点は、ラストシーンでほのかに希望を感じさせる点だ。
まだ救いようがある。

 キーワードは「言葉」「小鳥」「ババ・ヤガー(ババ・ラ・ドゥース)」。
文中に使われているこれらの言葉を拾ってみると、そこから読み取れるものが
あるかもしれない。(面倒だからやらないけど)

 この小説は内に閉じた物語だから、発展性もなく、また面白味もなく淡々と進行する。
でも、その中にある強い「わたし」の愛情に個人的には理解できた。共感となるとまた別物だけど。

 好き嫌いがはっきり分かれる作品だと思う。
基準は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観て、面白いと思った人にはイケるだろうし、
ダメだと思ったら面白くないと思います。

※補足
「わたし」とアンナの二人だけの大切なつながりと似ているもの、
ちまたで言われる「純愛」じゃないでしょうか。誰も介入してはならない大切なもの。
二人だけの世界、二人だけが分かればいい世界。介入された途端、二人の世界が
崩れてしまうような薄くて脆い関係性。

薄くて脆い関係性について指摘した本があります。参考にどうぞ。
大平健『純愛時代』岩波新書


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さみしさの周波数/乙一

乙一『さみしさの周波数』角川スニーカー文庫

「手を握る泥棒の物語」を除けば、
どれも「喪失」を感じさせる短編集でした。

 他の著作を読んでないので『さみしさの周波数』だけに限っていえば、
出てくる男の子が後悔なり不幸なりを背負い込んでますね。
そして、そこに救いがない。

 単純にそこに哀れみを感じてしまえば感動になるのだろうし、実際、自分が10代なら
手放しで良い小説だと言いちぎったと思う。特に「未来予報」なんかに関しては問答無用に。

 ただなぁ、最近殊更に多い「人が死ぬ」小説っていうのは嫌だな、と。
「ああしておけば良かったんじゃないか」という青春小説に、
果たして死は必要なんだろうか。

 死そのものは誰にでも想像しやすい刺激的な出来事だから、
クライマックスに持ってくると効果的。だけど、それがないと感動できないのであれば……
やっぱり、日本って豊かになりすぎだよね、と思わざるを得ない。

 不幸で悲惨であってもいい、悲しみに暮れるのもいい。
でもそういう境遇から立ち上がる、「男の子」のビルドゥングストーリーというのが
今の日本には存在しないってのが、この小説からも感じ取れました。

「女の子」のビルドゥングストーリーは宮崎駿をはじめとしてたくさんあるのにね。
男の子はみなへこむしかない世の中っていうのが流行のスタンスのようです。
ちなみにへこむの「へこ」は褌、ひいては男性器のことで、
へこたれ=へたれは男性器がたれる、要するに男性器が元気ないって意味です。

 ずいぶん話が飛んだけど『さみしさの周波数』は切ない小説と思います。
やや批判めいてますが、読書中ぐっときたのは確かです。頭ん中空っぽにして読んで、
素直に感動できる10代時に読むと最高なんかじゃないでしょうか。
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本読みのGW

読んでばかり、ではなく、買ってばかり、のゴールデンウィークでした。
ジュンク堂書店、古本屋さん、ブックオフ等々、お世話になりました。

今日はブックオフでキャンペーンをやってて、そのおかげで
『読むための理論―文学・思想・批評』と『銀の兜の夜』の
2冊を1000円で買えました。

特に『読むための理論―文学・思想・批評』はまだパラパラとしか読んでいないけど
おもしろそう。googleで調べてみたら、絶版ものでした(amazonの検索に引っかからない)。

他に買った本は
辻邦生
『廻廊にて』(絶版)
『北の岬』(絶版)
『眞晝の海への旅』(絶版)ここまで新潮文庫
『樹の声海の声1・2』朝日文庫(絶版)
島本理生『ナラタージュ』角川書店
石田衣良『アキハバラ@DEEP』文藝春秋
乙一『さみしさの周波数』角川スニーカー文庫
山口瞳
『男性自身 卑怯者の弁』(絶版)
『男性自身 おかしな話』新潮文庫(絶版)
エマニュエル・ボーヴ『ぼくのともだち』白水社
ドミニク・メナール『小鳥はいつ歌をうたう』河出書房新社
野上弥生子『迷路 上・下巻』岩波文庫(上巻だけ絶版状態)

計14冊
『ぼくのともだち』と『小鳥はいつ歌をうたう』の2冊はもう読んだけど、
残り12冊……積ん読に新しい仲間が加わりました。


あとは、立ち読みで文芸誌「文學界」「群像」「新潮」「すばる」を読む。
プラス「ダ・ヴィンチ」「創」も立ち読み。
特に「文學界」「群像」は新人賞の発表号。作品は図書館に行ったときに
ゆっくり読むとして、選評だけ一通り読む。なるほど。

GW、何処にも行かなかったけど充実したよーと、強がる。

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流行事情あれこれ

はっきり言ってこれは友達の友達から聞いたという情報の信憑性としては
ほぼゼロに近いものですが、面白いと思ったので書きます。

友達の友達は代官山によく行くおしゃれOLさんらしいですが、
最近、代官山は中高生が激増しているらしい。
多分原宿辺りから流れてきたんじゃないかと思ってます。

確かに原宿自体変わってきたというか何というか、
やって来る人そのものが変わったよなぁ。
竹下口の目の前に「ときメモカフェ」が出来てるし、
客層は完全に変化したと思う。
(それが良い悪いと言いたいわけじゃないんですが)

ファッションに気合い入れてた人が代官山に行ったというだけの話。
下北沢の人が数年前に上野に行ったのと同じ現象が起きてるんだな、
というわけです。

これが本流になるかは分からないし、
もしかしたら既にTEEN'S雑誌で特集してるのかもしれない。
いずれにせよ新しい動きなので、代官山に行ってみると
面白いかもしれないですね。

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